こんにちは。
先日「大家さんと僕」という漫画が面白いと聞いて、
早速読んでみました。
面白くて、笑いながら、あっという間に読めてしまう作品です。
でも、「ユルくて、ほっこりして、ちょっと切なくて」
そんなほんわかした読後感と共に、
なぜか底知れぬ畏怖も感じていました。
「大家さんと僕」。
ホンワカした漫画のつもりで読み始めたのに、ヤケドしました。
↓こんなユル可愛い絵だというのに。
まさに今、色々こじらせまくって人生の袋小路で悶々としている私自分に対し、
生き方の質を問われているような、
そんな気がしたのです。
そしてふと何年も前に亡くなった祖母のことを思い出して、
その理由がわかりました。
人の発する言葉の豊かさは、「歩んできた人生」をそのまま表すという事。
青春時代に死と隣り合わせの日常を生き抜いてきた人間と、
平和な時代に生まれ育った人間とでは、
根本的な強さの次元が違う。
その叶わなさっぷりに畏怖を感じたのです。
偶然の縁で始まった、「僕」と「大家さん」の日常
「大家さんと僕」は、
下宿していた部屋の大家さん(故人)との日常のエピソードを元に、
ご自分で描かれた漫画です。
実のところ私はこの作品も、
作者の矢部太郎さんのことも、
最近まで全然知りませんでした。
話題になってから結構経つようですね。
読んだきっかけは、母へのプレゼントついででした。
私はテレビを見る習慣がなく、
芸能人の顔も名前もろくに知らないのですが、
母は私と真逆で重度のテレビっ子です。
常に多数のドラマやバラエティ番組を視聴していて情報量が半端なく、
私が知っているテレビの情報の99%は母から得ているという妙な状態です。
そんな母が先日「お笑いの矢部さんが描いた漫画を読みたい」と言ってきたとき、
私の脳内では「ナインティナイン」の矢部さんが浮かんでいました。
間違いに気づいたのは後日書店で見つけた時です。
恥ずかしながら最近のお笑い芸人さん、
本当知らないんですよね~・・・。
それはさておき、
この漫画の魅力はなんといっても主人公の僕(矢部さん)に、
部屋を貸してくれていた「大家さん」の人柄やせりふです。
矢部さん(僕)は、
もともと住んでいたアパートを追い出されてしまい(気の毒な理由で)、
次に出会った物件がこの大家さんの暮らす一軒家の一部屋だったんですね。
そこから、なんの縁もつながりもなかった二人が、
つかず離れずの不思議な距離感で親交を深めていくお話です。
大家さんの人生の基準点になっている「戦争」
大家さんは戦前、裕福な家庭に生まれ育ち、
亡くなるまでもお独り住まいですが、
経済的に不自由のない生活をされていたご婦人です。
でも大家さんの人生の基準点は「戦時中」なんです。
戦後70年以上経とうと、
大家さんの中には「戦時中の日常」が今も生きているのです。
作品中「終戦が基準なんだ」という矢部さんの独白がありましたが、
大家さんにとっては太平洋戦争も敗戦も、ついこの間の出来事なんですよね。
戦前から東京の裕福な家に生まれ育っても、
青春時代はとうぜん戦争真っただ中。
食糧不足で常に飢えたり、
学徒動員での工場労働や疎開先での重労働で、
今の時代からは想像を絶するような厳しい生活を生き延びています。
もちろん、死とも隣り合わせでした。
私がふと自分の祖母を思い出したのも、
生前の祖母がまるで少し前の出来事のように、
夫(祖父)と生まれたばかりの長女(叔母)と一緒に、
戦時中暮らしていた東南アジアから引き揚げてきた時の話をしていたからです。
私も子どもだったので、
もっと詳しく聞けばよかったと後悔してますが、
命からがら日本に帰って来たと言っていたのを覚えています。
そんな祖母の生前は、恐ろしいうえ肝の据わり方が半端なく、
私は孫だからまだ可愛がられていましたが、
母もその兄弟も怖くて頭が上がらなかったようです。
一方この作品の大家さんは、
おっとりとした所作やきちんとした言葉遣いから、
育ちの良さがにじみ出るように上品で優しいご婦人です。
「ごきげんよう」「お暑うございますね」といった、
今ではほとんど聞かない言葉を当たり前に使い、
「明太子おひとつ」のためにタクシーで新宿伊勢丹までお買い物に行き、
部屋を貸している矢部さんにもいつも丁寧に接し、
しょっちゅう差し入れしたり、
ごちそうしたりしてくれます。
旦那さんやお子さんもいなく、
ちょっと寂しいけれど、
自由気ままで優雅な暮らしには羨ましさを感じます。
でもその上品な言葉のはしばしに、
強烈なパンチが効いているのです。
それは、
戦時中の過酷な暮らしに耐え抜いてきた人にしか生み出せない、
凄みやえぐみがにじみ出ているかのような。
決して意地悪でも攻撃的なわけでもないのに、
矢部さんを通して私の心も翻弄されてしまうのです。
ほんわかとした優雅で平和な日常と、
死と飢えが隣り合わせの日常が、
大家さんの「人生という一本の線」でつながっているんですね。
ひとつ、
「パンチが効きすぎる」と思ったやりとりを引用します。
池袋の話題になったときにも、
大家さんはふと思い出した感じでこんなことを言います。
「池袋っていうと、東京大空襲の次の日に、
今のサンシャインあたりで亡くなった人が
たくさんウメラレていたのをお友達が見たって・・・」
これに対して
「まじっすか?あのあたりでよくナンパしますよ!」
と明るく返す後輩芸人君も大したものですが。
大家さんにとって、
戦時中のできごとは日常のことだから、
日常のこととして話すだけ。
でもそれを受け止める、
戦争を知らない世代の私たちにはズシリと来る。
更に言うと、
失礼ながら私自身と著者の矢部太郎さんには個人的に共通点があり、
年が近いのもそうですが、
もう良い歳なのに「結婚」や「子育て」といった人生の試練を体験していません。
仕事はしているけれど、
コミュ障でうまくいかず、
地に足がついている実感がない。
だから余計に、
重い試練を乗り越えてきた人の言葉に、
太刀打ちできないのでしょう。
と重たい話になってしまいましたが、
この作品自体は決して重たいわけではなく、
全体的に明るくて楽しいです。
試練を乗り越えてきた人は、
自覚なく凄まじい言葉の猛威を振るうのですが、
それは笑いについても同じですね。
太宰治の心中についても、
まるで最近の芸能ニュースを語るようなノリだし、
好きなイケメン俳優を上げるようにマッカーサー元帥の名前が出てくるし、
「この前行った旅行」が国鉄時代だし。
矢部さんにとって、
大家さんとの言葉のキャッチボールは予想もつかない変化球満載で、
2人の対比が本当に楽しいです。
この作品から得たメッセージ
学ぶ自由も欲しい情報を得る自由も、
仕事や生き方を選ぶ自由もある。
こんな恵まれた時代に生まれ育っているのに、
自分の人生が空虚なものに感じることがある。
そう感じるのも当然で、
人類始まってからその歴史のほとんどにおいて、
生きることは本来「たたかい」なんですね。
「食べる」ことと「死なない」ことと「子孫を残す」こと。
歴史上ほとんどの人間が、
人生それだけでめいっぱいだった。
余計なことを考える暇もないくらいに。
好きなことをやるどころか、
学ぶ自由も知る自由も、
自分の考えを持つ自由もない、
それどころか「生きるか死ぬか」の世界なんて、
誰にとっても嫌に決まっています。
でも大家さんは不自由だらけな時代でたたかい抜いてきたからこそ、
自由の価値を知っているし、
自由を謳歌している。
空虚に感じてる場合じゃないなと思いました。
私もたたかいから逃げずに生き抜いて、
大家さんのように堂々と優雅に暮らす老後を目指します。